過去と未来をつなぐ。

'83年生まれ ♂ の雑記帖。思ったことは、自分の言葉で書き留めとく。

『思考のスイッチ』

何かのきっかけがあって、目の前のものごとが突然、クリアに自分の頭の中に入ってくることがあります。

 

例えば、今まで全然見えていなかった風景が、目に入るようになったり。

人の言葉を、耳が拾うようになったり。

全く理解できなかった話が、突然頭の中で繋がったり。

相手の次の動作が、フッと読めたりとか。

 

そんな体験、ないでしょうか?学校でも、スポーツでも、仕事でも、どんな小さなことでもいいです。

 

頭の構造が単純なのか、僕は結構あります。

きっかけは色々で、その内容も場所もシチュエーションも様々。ですが不思議なことに、必ずしも経験の有る/無しにかかわらず、ほとんどは唐突に現れます。経験値を積んだからステップアップ、という感じではなかったりしますね。(もちろんそのパターンもありますが。)

ただ改めて振り返ると、だいたい、要因は2つに集約されるかなーと思います。

 

1つは、『集中のスイッチ』が入ること。

もう1つは、『思考のスイッチ』が入ることです。

 

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『集中のスイッチ』というのは、Maxまで入ると、いわゆる"ゾーンの状態"になるもの(と考えています。)ゾーンは、最近マンガとかでも良く出て来ますし、スポーツ好きの人は知っていることも多いでしょう。

極限まで集中を高めると、ボールの動きが止まって見えたり(実際には止まっていないけど)、視界の外にいる人の動きが見えているかのように(実際には見えていないけど)把握できたりするそうです。

脳科学の分野でも注目されています。

 

このゾーンは、正直、一流のスポーツ選手でも、なかなか入れられない領域です。

ただ、普段の仕事などでも、いかに狙ってこの『集中のスイッチ』をコントロールするかは、結構大事な課題となります。

単純なオン・オフではなく、オンの状態にも段階があって、この『集中のスイッチ』がどこまで入るかは、そのまま、1人1人の生産性に直結します。(イメージはダイヤル型。)

 

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一方、『思考のスイッチ』は、少し性質が違うものかなーと思います。こっちは、一言で言うと、考えるときの"癖"。

 

人の成長は、美しい曲線を描くのではなくて、歪んだ、らせん階段状になっているんじゃないかという話を以前に書きました。(「健全な揺り戻しと、らせん階段」)

ある日突然、その階段をステップアップすることがあります。

外から見た人は、開花だとか覚醒とか評価したりしますが、このとき起きているのは、今までに入っていなかった『思考のスイッチ』が、オフからオンに切り替わることだと思います。

 

すごく乱暴なイメージでいうと、頭の中に、スイッチがたくさん並んでて、そのほとんどがオフになっている中で、特定のものを考えるためのスイッチが、すっとオンに入る感じです。(オン・オフ型。)

そして一度オンに入ると、その状態が続きやすいのも『思考のスイッチ』の特徴かなと思います。

もちろんオンに入ったスイッチが、どのくらい入った状態が続くのか、正直分かりません。気付いたら考えなくなってしまう(=スイッチオフに戻っている)、ということもあります。しかし、都度入れないといけない『集中のスイッチ』よりも、一度入った時の持続性があります。

 

イデアは、普段から"癖"で考えている先に、生まれると言います。その"癖"を身につけるのが、『思考のスイッチ』だと思うのです。

 

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今の日本には、成長経済の間に、長らく積み上が(ってしま)った既存の枠組が、ものすごくたくさんあります。それはそれで社会に貢献しているものもありますが、今を生きている僕たちの、思考を停止させてしまったものも、実際多いと思います。

結局、『思考のスイッチ』がオフのまま、時間が流れているものです。経済も、教育も、政治も、あらゆる分野にあるんではないでしょうか。

 

社会全体ですっかりオフになっているスイッチを、ひとつひとつ触って、オンに切り替えていく。

僕たちがこれからやっていくことの1つが、まさにこの作業。その積み重ねが、次の世代の新しい未来を作ると、僕は信じています。

 

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2つの感情を、同時に抱える

昔、「好きと嫌いは、反対語ではない」という話を初めて聞いたとき、衝撃と同時に、すごく感心したことを覚えています。当時、僕は高校生だったか、中学生だったか。

その考え方自体は、結構色んな本でも書かれていたりしますが、要は「好きの反対は、無関心だ」ということ。同時に「嫌いの反対も、無関心」です。

 

だから無関心の対極にあるという意味では、好きも嫌いも、紙一重。

そもそも関心が無ければ、好きや嫌いといった感情は生まれません。無関心は、好きどころか、嫌いにすら転ずるチャンスがない状態です。

 

恋愛感情などで、よく「愛と憎しみは紙一重」なんていう言い方をする人もいますよね。(いない?)

でも最初はものすごく嫌いだったものが、ちょっとしたことを経て、気づいたら好きになっていた経験、僕は実際にあります。

後から思い起こせば、最初からそれは(人だったので、その人は)、自分の中に、強烈に何かが引っかかっていました。ある意味で惹かれたからこそ、それを持たない自分を否定するように、最初は嫌いだったのかもしれません。

 

一見相反するけど、コインの表と裏のように、誰もが自分の中で併せ持っているものって、実はたくさんあるんだと思います。

 

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最近、家入一真さん(株式会社CAMPFIRE)の『絶望手帖』という本を、読みました。絶望名言がひたすら書かれてある、なかなか無いタイプの本。絶妙なバランス感覚で成り立っているんですが、まず帯の一言が、秀逸でした。

 

"「死にたい」と「生きたい」は同義語です。

今、多くの人が弱さをさらけ出せずに悩んでいます。だから、あえてネガティブな言葉を集めたいと思ったのが、この本のはじまりです。"

 

死にたいと、生きたい。

それにネガティブと、ポジティブ。

 

自分の中に、一見反する2つの感情を共存させるのは、全く不自然なことではないと思います。

最近の僕は、ポジティブに思われることがどちらかと言えば多いですが、もちろんネガティブになることもあります。(面と向かって、指摘されることもある。)そもそもの元は、何をやってもクヨクヨとする、ネガティブな人間でした。

 

正直、ポジティブに発言した方が得かな?と思うシチュエーションで、狙ってポジティブを演出しているところもあります。僕自身、今の自分がどうなのか、よく分かりません。

ただポジティブな発言をする前には、まずネガティブに状況を受け入れることが、必要だと思っています。

 

ポジティブな状況で、さらにポジティブな提案をするのって、正直しんどいです。ネガティブを受け入れたからこそ、それを何とかするために、ポジティブな対策って考えられるのじゃないかと。 

100%ポジティブな人や、100%ネガティブな人っていないと思いますし、その振れ幅の中で、状況を変えていく力は、生まれるんじゃないでしょうか。

 

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最後に。僕は、不安と希望も、同じように同義語だと思っています。

 

何かに向けて一歩踏み出すときに、誰でも抱く感情が、不安と希望です。どちらも「もっと良く生きたい」(誤解を恐れずに言うならば「もっと良く死にたい」)という気持ちが、ベースにあると思います。

だから他の感情と同じように、どちらか一方じゃなく、どっちも併せ持っているのが、自然なことじゃないでしょうか。

 

希望があるから、不安を抱く。

不安があるから、希望を持てる。

この振れ幅を受け入れて初めて、一歩を踏み出せるんじゃないかなぁと、最近は思っています。

 

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健全な揺り戻しと、らせん階段

昔の自分と、今の自分とを繋いでみたとき、どんなイメージが描けるでしょうか。

自分が辿ってきた道のりを振り返って、最近考えていることです。

 

一般的に「成長」と言われるものを図にすると、高くなっていく棒グラフだったり、右肩上がりの曲線だったりで表されることが、多いかもしれません。

数値化が簡単な指標(成績、売上、人数など)であればある程、そういうイメージが合う気がします。

 

でも、人というものの成長は、当たり前ですが、そんなに単純ではありません。今の自分自身に至る道が、迷いのない一本道だったと言える人って、僕はほとんどいないと思っています。

紆余曲折の大きさに差はあるにしても、いつも、誰でも、それなりの迷いや、失敗や、やり直しの中で、ふと気づいたときに、少し成長したかな?と感じることの方が、多いんじゃないでしょうか。

 

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僕は、自分の興味や考えが、定期的に思いっきり方向転換します。全くの逆を向くわけではないんですが、ベクトルが、弧を描くように、別の方向に曲がっていくんです。

そして大概、曲がりきった後に、ふと我に返って「あー自分変わったなぁ」と気づく。

 

例えば、就職活動前は、海外ビジネスや、今で言う社会起業のような会社に興味がありました。でも結局は色々な縁もあって、国内市場のみをターゲットとした、カタめの教育産業の会社に就職。仕事に慣れてくると、「このままいくのも手かな…」と思ったことも、一度や二度ではありませんでした。

それでも9年が経過して、少しずつ蓄積した違和感や、自分の成長が止まっていることを認めたときに、再びもう一度、自分が本当にやりたいことをやろう、と決めました。社会人になってずっと見えていた世界が、また変わりました。


昔は、コロコロと考え方が変わっているようで、一貫性のない自分が嫌でした。自分では、そこまで飽きっぽいつもりは無いんですが、結果だけを見ると、色々揺れまくっている。

 

でも最近は、自分が変わっていくことを、1つの前提にしています。「変わらずにいることの方が難しいから」と、割り切りました。

人は変わる。むしろ、変わることができる。

過去の自分を反省することはありますが、それまでの自分がいなければ、ここで変化している自分はそもそも存在しない、というふうに今は考えています。

これまでの自分がちょっとでも欠けていたら、今ここにはいない

 

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1人の人間の中には、たくさんの人間がいると思います。自分で把握している自分なんて、ほんの一部です。自分の中に多様性があるからこそ、生きている内に、揺り戻しのようなことが普通に、何度でも起こる。

揺り戻しがないということは、自分の中に多様性が無いからかもしれない。ある意味では、揺れるということは、とても健全なのだと思います。

 

だから過去と今を繋ぐ成長線は、よくあるグラフのように二次元的なものではなくて、いびつな『らせん階段』を描いているんじゃないか。これが、過去の自分も振り返って思う、僕の成長のイメージです。

 

それはどれだけいびつな形であっても、『らせん階段』です。中心に支える柱があれば、また近いところに戻って来れます。そして戻ってきたときには、ほんの少しだけ、上にあがることができている。

下がってしまうのは、支える柱を見失ったときです。だから、柱だけは必要。そしてその支柱は、自分が本当に好きなことや、好きな人や、好きな場所にしか、無いんじゃないでしょうか。

 

健全な揺り戻しを、素直に受け入れること。

成長の『らせん階段』の、支柱になる部分を見失わないこと。

 

自分はこの先もまだまだ変わりそうな予感がしているんですが、それを楽しめる自分自身でありたいと、強く思っています。

 

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